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もうひとりの〈ノリコさん〉    

かつてイスラエルで社会現象になった”ノリコさんの本”。同じ名前をもつ”わたし“が60年代のキブツで目撃した、不思議な国・日本への強烈な憧憬。

―樋口 範子(翻訳家)

わたしは、今から55年まえの4月、第三次中東戦争(六日戦争)の翌年に横浜港を発ち、シベリヤ経由でイスラエルのキブツに向かいました。当時の日本にはキブツ協会という民間組織があり、年間数十人の日本の若者を一年間のキブツ研修に派遣していました。高校を卒業したばかりで18歳だったわたしは、そのグループの一員として現地のアボカド畑で一日6時間働き、2時間のヘブライ語授業を受け、恵まれた二年間を過ごしました。

 はじめのころ、キブツでも街でも、ノリコと自己紹介すると、だれもが急に親しげに満面の笑みをこめ「ノリコさーん」とリにアクセントをつけて、さをさーんと伸ばして両手を差し出すのです。やがてそれが『ノリコさん』という1冊の本の所以だと知りました。

『ノリコさん』は、1950年代に日本で撮影されたと思われる40枚のモノクロ写真に、スウェーデンの世界的児童文学作家アストリッド・リンドグレンがテキストをつけ、それをやはりイスラエルの人気作家であるレア・ゴールドベルグがヘブライ語に翻訳した写真本です。その本のページをめくったわたしは、おどろくというより、大いにとまどいました。というのは、そこにある40枚の写真には、少なくとも正しい日本の暮らしは全くなく、鯉のぼり、ひな壇、神輿(みこし)、晴れ着で遊ぶ子どもたち、池や石灯籠のある日本庭園という非日常のトピックだけが連なり、最後にスウェーデンから来日した少女エヴァとノリコさんが衣服を交換して、いわゆる国際親善でくくられるファンタジーだったからです。

 ノリコさんとわたしはほぼ同年齢で、ふっくらした顔が似ているのか、イスラエル国内どこに行っても「あなたがほんとうのノリコさーんなのね!」と問われ、そのたびに「いいえ」と答えるのが、なんとも残念でなりませんでした。その本は自分には何の郷愁も呼ばないのですが、どのページにも登場するノリコさんは、いつしかわたしの心に棲みました。

現実の”ノリコさん”は見つかり、エヴァと再会。しかしイスラエル人のノスタルジーはいまだ止まらず。

やがて多くのイスラエル人が日本を訪れ、素顔の日本に触れて、あの写真の暮らしは現実ではないとだれもが知るも尚、『ノリコさん』の本は版を重ねているのです。なんて不思議?! それを解くひとつの鍵は、60年代から80年代にわたってイスラエルでは、第3次中東戦争(六日戦争)、第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)、インティファーダとつづき、人々の心が常に不安と恐怖に覆われる中での、ノリコさんが放つ異星の安心感かもしれません。そして今となっては、本を読んでもらった幼い頃へのノスタルジーも加わるようです。

 10年ほど前から取材をしてきたイスラエルの関係者が、写真本のノリコさんを捜索、まもなく新聞記事の仲介で見つかり、スウェーデンから来日したかつての少女エヴァとなつかしい再会を果たしました。その再会プロセスは、イスラエルではドキュメンタリー映画になって、上映中の映画館には行列ができたそうです。
 さっそく、キブツの旧友が「もうひとりの、ほんとうのノリコさんへ」と書かれたカードとともにその映画のDVDを送ってくれました。

いつの日か、わたしの中で長く棲むノリコさんにお目にかかり、「あなたはあの国で、こんなにも長くずっと愛されているのよ」と、日本語できちんと伝えられたら・・・それこそ、二人のほんとうのノリコさんは、ファンタジーでなくてなんでしょう?

年配の男性人の肖像画

樋口範子

1949年東京に生まれる。立教女学院卒業と同時にイスラエルに渡り、2年間キブツ(集団農場)のアボカド畑で働く。帰国後、山中湖畔にある児童養護施設の保育士、パン屋、喫茶店運営を経て、現在はヘブライ文学の翻訳をライフワークとしている。訳書に『キブツその素顔』(ミルトス社)、『六号病室のなかまたち』(さ・え・ら書房)、『ぼくたちに翼のあったころ』(福音館書店)、絵本『もりのおうちのきいちごジュース』(徳間書店)などがある。

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