Israel Ministry of Foreign Affairs
イスラエルの物語が生まれる場所
現代的なテルアビブと歴史の息吹を感じるエルサレム。まったく個性の違う街から生み出される物語たち。まだあまり知られていないイスラエル文学へのご招待。
―広岡杏子(翻訳家)
この世から消えたいと望んでいる男が、働いているパイプ工場で巨大なパイプを作り始め、どんどん長くしていき、最後に内側を這って向こう側にたどり着く。そこは「人生とほんとに折り合いがつかなかった人たち」がたどり着く天国だった。イスラエルの代表的作家エトガル・ケレットの「パイプ」である。
私はケレットが、初めて書いたこの短篇小説を実の兄に読ませるエピソードが好きだ。兄は犬の散歩中にプリントアウトされたこの話を読み、「この小説はすごい」と絶賛したあと、その紙で飼い犬のフンを掬ってゴミ箱に捨てる。ケレットはそれに怒るどころか、その紙が自分の心から兄の心へと感情を伝えるパイプの役目を果たしたと感じ、それが作家になりたいと思った瞬間だと語っている。
ケレットはテルアビブ在住の作家である。数年前、私がテルアビブの通りを歩いていると、突然空から鳩のフンが落ちてきて、頭がフンまみれになった。その場に呆然と立ち尽くしていると、向かいの通りにいたアジア系の若い女性から呼ばれ「ここでちょっと待ってて」と言われた。隣に車椅子に乗った老人がいたので、すぐに彼女がイスラエルで働くフィリピン人の介護士だとわかった。彼女は赤ちゃん用のウェットティッシュを手に戻ってくると、身の上話をしながら私の頭を丁寧に拭いてくれ、拭き終わると余ったウェットティッシュをまるごとくれた。
ケレット風に言えば、ウェットティッシュは、物語は書いていないけど、彼女の心を私に伝えるパイプになってくれた。おまけにその様子をベンチで見ていたイスラエル人女性が「マザル、マザル(これも運命)」としきりに私に言ってきて、そうか、運命ならしょうがない、と気楽になり、なんだかこの場所からケレットの作品が生まれる理由がわかった気がしたのだ。
テルアビブ、エルサレム、ユダヤ人の歴史
イスラエルはつくづく不思議な国で、約一時間で行き来できる地中海沿いのテルアビブと聖地が集まるエルサレムで雰囲気がまったく違う。テルアビブからはケレット以外にも、オルリー・カステル=ブルームの強烈なディストピア小説『ドリーシティー』(未邦訳)のような作品が生まれてくる。主人公ドリーがゴミ袋の中に赤ん坊を発見し、マンションの37階で赤ん坊に不要な手術を繰り返す。その舞台となるのがテルアビブに似た架空の都市ドリーシティーだ。かたや蜂蜜色の建物が並ぶ聖地エルサレムは、ダニエル・シャレムの小説『ゴーレム』(未邦訳)のように、チェコ・プラハのユダヤ伝承ゴーレム伝説が蘇る地にぴったりである。ゴーレムに限らず、イスラエル文学のおもしろさは世界各地に住んできたユダヤ人の伝承・文学・歴史を引っ張ってくるところにもある。創世記、タルムード、カバラ、ロスチャイルド家、カフカなど、そのテーマの魅力は尽きないし、アラブ人との関係やホロコーストをめぐる文学も現在進行形で生まれている。
コロナ感染症対策で耳にする機会が増えたイスラエルだが、文学となるとまだまだ知られていない。遠い中東の国から生まれる面白い物語を、一人でも多くの人に楽しんでもらいたい。
*エトガル・ケレットの「パイプ」は『クネレルのサマーキャンプ』(母袋夏生訳)、兄とのエピソードは『あの素晴らしき七年』(秋元孝文訳)に収められている。
広岡杏子 (Kyoko Hirooka)
翻訳家。訳書にエトガル・ケレット『銀河の果ての落とし穴』(河出書房新社)がある。1982年東京生まれ。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)ヘブライ語・ユダヤ学部学士課程卒業。2017年イスラエル政府奨学金制度を利用して一年間エルサレム・ヘブライ大学へ留学。同大学ロスバーグ・インターナショナル・スクールイスラエル学部修士課程卒業。現在SPENEARで『銀河の果ての落とし穴』に収録の短篇「毎日が誕生日」がポッドキャストになって配信中。
https://spinear.com/shows/the-israeli-stories/episodes/2021-08-13-1/