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聖地の偏愛叙事詩 / 中 

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Ⓒ Naeko Hatano

取調室には、むせかえるほどのタバコの臭いにまみれた年配の刑事が入ってきた。刑事は机にもたれかかるとビニール袋をガサガサといわせた。ぼくは自制心を失うところだった。ぼくは推理小説が大嫌いだ。残された口紅の跡がどうこうとかいうディティールにはついていけない。それで昨晩のことを洗いざらい話すことにした。つまり、ラスコーリニコフなら何百ページも割かなきゃならないところだが、ぼくはもっと物分かりが早いってわけだ。
「昨日はエラと一緒でした」ぼくは正直に言った。「でも、ぼくは彼女になにもしてませんし、その……」ぼくは鼻水を垂らしてしゃくりあげ、みっともなく泣きだした。
「まあまあ、落ち着いて。昨晩あったことを順序だてて話すんだ」
ぼくの話は、自分でもうんざりするほど陳腐だった。ぼくがプレゼントした暗闇で光るプラスチックの拘束具を使って、エラはヨギストみたいに自分で手足を縛りつけられること、バクラヴァの入った黄色いビニール袋がテーブルにあったこと、ぼくはそれが例のエレベーターに乗ったキツネ野郎からの贈り物だと知って、ぜんぶ捨てたこと。
「おまえが彼女の首をしめたんだな」刑事が言った。
「ちょっとだけです。エラに頼まれたから。プレイの一環ですよ。見てください、ぼくだってエラにやられたんですよ、ここ――」
ぼくはシャツをめくって背中の引っ掻き傷を見せようとしたが、刑事は一瞥もくれなかった。
「彼女と別れたのは何時だ?」
「その袋の音、どうにかしてもらえません?」ぼくはお願いした。刑事は無視した。
「昨日彼女の部屋を出たのは何時かと訊いてる」
「深夜0時の少し手前です」ぼくは答えた。「イヒロヴ病院の夜勤に間に合うように」
「おまえ、医者か?」刑事が驚いた顔をした。
「バリスタです」ぼくは答えた。「同じマンションのアメリカ人にも訊いてみたらどうですか。ぼくが出てったとき、裏庭で飼い犬のロットワイラーを散歩させてましたから」
刑事はパソコンに何かを打ちこんだ。
「誓って言いますけど、ぼくが帰るとき、エラはいたって元気にスヤスヤ眠ってましたよ。いや待てよ、いびきをかいてたぞ! それって証拠になりますよね? 昏睡状態の人がいびきなんてかきます?」
刑事は顔をあげ、じっとぼくを見つめると、驚くべきことにこう言った。
「オーケー、もういい。おまえは自由だ。連絡先の番号だけ置いていけ。今後も訊きたいことがあるかもしれない」

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聖地の偏愛叙事詩 / 中 

聖地の偏愛叙事詩 / 中 

ロイ・ヘン

著者:

波多野苗子

翻訳:

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