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聖地の偏愛叙事詩 / 上

1

ⒸNaeko Hatano

「聞いた? あの娘(こ)のこと」
テディベアのグミそっくりの体つきをした‘お菓子の世界’の店員が訊いてきた。
「知らない? 明け方、ERに運ばれてきたんだぜ。係のやつらが、『眠れる森の美女』って噂してた」
ぼくは店員を遮るように言った。「まったく、秘密保持も何もあったもんじゃないな」
ぼくは職場のイヒロヴ病院のコーヒーショップで、フローサーを使ってミルクを泡立てていた。テディベアはブラウンシュガーの袋を弄りながら、にたにた笑って唇をかんだ。その背後を、車椅子に乗った陽気な男の子と父親、ギプスをつけた青白い顔の女の人が通り過ぎる。ゴミ箱の傍らでは、掃除夫がうなだれたまま虚空を見つめている。フローサーが泡立ったミルクの中に沈むと、ウィーンという機械音がくぐもった。
「その娘の脚の間で何かが燃えてると思ったら、なんとアソコを赤く染めてたってオチらしい。真っ赤だぜ。オレンジじゃなくて燃えるような赤! 小柄で浅黒い肌のブルネットの女の子だとさ――おいおい、ミルクがこぼれてるぜ、なんだよ、スイッチ入っちゃった?」
病院の廊下では「熱々のコーヒーですよ!」という叫び声が、救急車のサイレンと同じ効果をもたらす。ぼくはバリスタの制服を着てERに向かった。気をつけて! 眠たそうな麻酔医の一群をかきわける。熱々のコーヒーですよ!
洗いざらした薄い毛布の下で、娘は壊れた人形のように仰向けに横たわっていた。顔は石のように白く、腫れた唇の間からチューブが出ている。小麦色の首筋に赤みを帯びた跡がある。エアコンの風は冷えきって、死体安置所みたいだ。体に繋がれた機器が不定期にビーッと鳴るので、その度にびくびくさせられる。カーテンの奥で入院患者が暴れてくれたおかげで、ぼくは束の間、彼女とふたりきりになれた。それはエラだった。ぼくのエラ。

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