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で、あんたは死ね

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©stateofisrael

 いまさら1972年の初雪、ぼくにとっての初雪を思いだすなんてふざけた話だ。オスロに住んで5年になるが、ここでは冬の間ずっと、ネゲブ砂漠のど真ん中に湖さえつくれるほどの雪が降り積もる。結婚して5年、ノルウェーの雪で育った妻は、冬が訪れるたびに感激するぼくを愛してくれている。じつのところ、ふた冬も過ぎると雪へのときめきは消えてしまった。それでも、初雪の夜が明けると、海をはじめて目にするエルサレム人みたいに、外に飛びだして庭を転げまわるぼくを、妻がうれしげに眺めてくれるので、ぼくはあいかわらず大げさに喜ぶふりを続けている。小さな家の戸口に立ち、冷気に手をこすりながら全身で笑みこぼれ、目を輝かせる妻が見たくて、ぼくはそうしている。ぼくの故国にはない、彼女だけのものを与えられるのが妻はうれしくてたまらないのだ。ぼくを抱きしめ、「あなたって変ね。そう、変よ」と言い、祖国の名においてぼくに愛を授けるノルウェーの国連大使の気分になる。そんなわけで、ぼくはこの5年、雪のおかげでしあわせだというふりを続けている。
 だが、話は72年の冬、ミロン山の頂きで、生まれてはじめて見た雪についてだ。3日前にこのオスロで、最初のガールフレンドとたまたま再会するまで、あの時の雪を長いこと忘れていた。
 彼女とは高校の時に出会って2年半つきあった。ぼくにとってはじめての女性で、兵役前にはしばらくいっしょに暮らしたことさえある。それから、ふたりが兵役につくと会う回数が減っていき、だんだん遠のいてしまった。それでも、兵役について8か月ばかりはなんとかもっていたが、終わってしまった。彼女の側がそう決めたのだ。
 そうだった。彼女の決心さえ、あのとき、ぼくは知らなかったのだ。別れる決心なんか、ぼくには絶対できない。ぼくは生まれつき誠実な人間で、だから、たとえ愛が完璧に終わってしまっても、誠実でありつづける。愛を受け入れてくれた人を、そのまま去らせるなんて、ぼくにはできない。ぼくは、駅のプラットホ−ムでハンカチを握りしめて立ちつくすほうだ。踵をすぐ返したり、その辺をうろついたりしないで、汽車が消えるまで、いつまでも立ちつくすほうだ。
 雪のオスロ郊外での、あまりに歳月を経たあとの再会は、子どもの頃になくしたボールを見つけたのと似ていた。物置で、ふと見つけたボール。思い出の甘くてきつい香りに胸があふれ、けれど、その思い出はぼんやりと、だが、ずっしりと重い、もちろん甘美さなどかけらもないときの重なりを経てしまっている。人は互いにふれあい、互いに相手のイメージを刻みこむ。相手が消えても、刻みこまれたあとは永遠に残り、心に刻みこまれたイメージは良くも悪くも変わっていく。ぼくたちが別れたその冬は、ひどく悪く終わったかもしれなかった。

 軍隊にいた。ぼくのベースキャンプはミロン山頂にあった。その年は、冬の訪れが遅かった。ぼくは、ネゲブ砂漠の人里はなれたキャンプでのきびしく長い特殊訓練にふたりの同僚と派遣されていた。待遇は最悪、夜はひどく冷えこんだ。ふたり一組で小さな野戦用テントにおしこまれ、携帯食器でちまちまと食事をとる。上官たちは厳格で頑固だった。なにもかもに嫌気がさしていた。なにか奇跡が起きてベースキャンプに舞い戻れないものかと願っていた。奇跡は起きなかったが、キャンプの全員と喧嘩をしたし、直属の上官とは、とくにはげしくやりあった。
 ある晩、ぼくはひとりでテントにいた。暗やみのなか、硬い土の上にしいた寝袋の上に横になって、人生とはなんとつまらぬものかと思っていた。キャンプ地の向こうはしにいるふたりの歩哨と上官をのぞけば、ぼくひとりだった。キャンプのみんなは近くの空軍基地に映画を観にいったが、ぼくは居残っていた。
 アナットを思った。どういうわけか、このところしっくりいかなくて、たがいに距離をおきだしている。
 突然、外で物音がした。
「アドリー、出ろ」
 上官だ。ぼくは深呼吸してテントの外に出た。
「なぜ、銃を外に置いたまま、なかにいる?」
「自分の銃はテントのなかにあります」
 そう言ったが、上官は信じない。ぼくはテントのなかから銃を取ってきて見せた。
「じゃあ、あれは誰のだ?」
 上官はテントの裏手から2メートルばかりの暗やみにある銃を指さした。ぼくは肩をすくめて、銃を拾いにいった。ただの棒切れだった。見せると、上官は「よし」とうなずいた。
「ところで、アドリー。アナット・レヴィンソンって、誰だ?」
 胸が早鐘のように鳴った。彼女の名だ。上官が彼女の名を口にするなんて妙だ。ぐさりとくる。
「なぜですか?」ぼくは緊張して聞いた。
 上官がポケットから手紙をひっぱりだした。
「君あてだ。ミロンの君の部隊からまわってきた」
 ぼくは手をのばした。
「いや」上官は言った。「まず、腕立て伏せを30回だ」
「えっ?」
「30回。地面に伏せて、さあ」
 上官が持っている手紙の封筒には−−−−彼女の筆跡があった。
 兵役についてほぼ1年、アナットだけが、ぼくの人生で唯一、いまだに清らかであまやかな存在だった。かつてわが人生がそうありたいと望んだような清らかなあまやかさ。そのためになら、朝起きてもう1日働くだけの価値があると思える、たったひとつのものだった。ぼくのように宗教を持たない人間にとってさえ、上官が彼女の手紙を手にしているのは冒涜にひとしかった。
「手紙をください」そう言ったが、声が震えた。
「いや、アドリー、そんなにせくな。じゃあ、25回だ。伏せろよ。さあ」
 今でさえ、あのとき上官は本気だったのか、それとも、単にぼくをあおって、あとで肩でも叩くつもりだったのか判然としない。上官は笑ったが、弱点を発見したぞ、とでもいう笑いに見えた。女好きな男だな、と。
「さあ、アドリー。ひと晩じゅう待ってるわけにはいかん」
 銃の撃鉄を起こして、上官に向けた。汽車に轢き殺されそうだという素速さで、上官の顔から笑みが消えた。
「アドリー、どうした? 銃をすぐおろせ」
 ぼくは口がきけなかった。
「アドリー、どうした?」
「手紙にかまうな」
「アドリー、銃をおろすんだ!」
「撃つぞ」そう言って、ぼくはしっかりと銃をかまえた。
 上官は凍りついた。
「撃つぞ」もう一度、ぼくは言った。「手紙を捨てるんだ」
「アドリー、面倒になるぞ!」
「で、あんたは死ね」声がふるえた。「手紙を捨てろ」ぼくは叫んだ。
 上官は手紙を捨てた。
「さあ、うしろを向いて、いけ」
「高いものにつくぞ」
「そうかな」とぼくは言った。「ここには誰もいない。おれの言葉とあんたの言葉しかない。それに、誰もあんたの言うことを信じないくらい、おれだってイイコのふりはできるからな」
 上官はその場に凍りついた。手がふるえている。それから、うしろを向いて立ちさった。
 銃をおろして手紙を拾った。手紙を手にしたまま、しばらくぼくは立ちつくしていた。それからやっと、自分がしでかしたことに気がついた。深く息を吸いこみ、銃と手紙を持ってテントに這いこんで、寝袋にころがった。頭にゴロゴロあたる石をのけ、ザックから懐中電灯を出して手紙をひらいた。短い、便箋1枚の手紙。懐中電灯をつけて、ぼくは読みだした。

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