
Israel Ministry of Foreign Affairs
首相が撃たれた日に

©Michal Endo Weil
肩をすくめた。「どこにいくんだ? それに、ここを出てどこかにいったら、あの娘のことを忘れられるとでも思ってるのかね? まあ、聞けよ。30年間、おれは妻を愛して暮らしてきた。ほんとだ。だけど、こんなことは一度もなかった。まるで、気が狂ったみたいで」黙り込み、それから続けた。「おれは老いた人間だ。なにもできない。いまさら、どこにいけばいい? おれが、このおれが、新しい暮らしをはじめなくちゃいかんってのか。おれにはもう、そんな時間はない。だけど、毎日こんなじゃ、つらくてな。若くなれるなら、魂だって売り渡したいよ。これじゃどうしようもない。終わりを待つだけで」
ぼくは彼を見つめ、だが、なにも言えなかった。彼はうす笑いを浮かべた。
「笑わせるよ、まったく。死を怖れてるから哀れだなんて、あの娘に言われるとはな。おれが? おれが、死を怖がってる? 死が存在しないんなら、おれが発明してやるってのに」彼はドアノブに向かい、ドアを開けた。そして部屋の外で、ていねいな口調で言った。
「あの娘には、なにも言わないでください。おれのことを思ってください。知られでもしたら、おれにとっちゃ、この世の終わりです。あの娘に笑われ、憐れまれちまう。愛している人に笑われたり同情されたりするなんて、最悪だ。あんたはまだ若い。だけど、そのくらいはわかるだろ」
ぼくは、なにも言いません、とまた誓った。彼はうなずいて、自分の部屋に消えた。ぼくはベッドに戻って身体を伸ばした。眠られなかった。
それから2日、そこで働いた。アブラハムはずっと猜疑の目でぼくを追いまわし、だが、話しかけてはこなかった。おはよう、と言うのさえやっとのようだった。彼は怖がっていた。それが、ぼくには堪えられなかった。ぼくがいるかぎり、口を割られるのじゃないか、しゃべられるのじゃないか、と恐怖の虜でいるだろう。
2日後、旧くからの親友のところに転がり込むことにして、仕事を辞めた。ディナには、友だちがいい仕事の話を持ってきてくれたので了解してほしいと言った。ディナは了解してくれた。外に出て、手持ちの金を勘定してみた。きりつめれば、ぎりぎり2週間は暮らせる。外は夕暮れだった。
友だちのアパートに着いた。ドアに「ダニー」と書いてある。ベルを鳴らすと、ダニーがドアを開けてくれ、雑嚢を持ったぼくを見てうなずいた。なかに入って雑嚢を放りだして、ぼくたちはベランダに出た。外は、じっとりと暑い暗やみだった。ベランダの下を、おしゃべりしながら人が通り過ぎていく。声が聞こえた。くだらないおしゃべり。それからずっとあと、安物のウィスキー2本と、封を開けた煙草の箱をいくつもまわりにおいて座りこんでから、ダニーが首相の狙撃事件を話してくれた。ぼくが自分の話をすると、ダニーは、そっちの話のほうがずっと大事だと言った。
ぼくたちはまたウィスキーを飲み、また煙草をふかした。ぼくはダニーに言った。ダニー、ここはどうなってるんだ。ずっと、なんにも傷つけないように、あたりさわりなくうろつきまわってるばかりでさ。こんなこと、いつまでやってりゃいいんだろ。ぼくたちがちょっと触わると、何でも壊れちまう。除隊してからってもの、ぼくら、すっかり下降線だぜ。下に向かいっぱなしだ。
「さあな」ダニーが言った。
「除隊したとき、世界を制覇できる、片手を背中にくくりつけたままで、わけなく世界を手に入れられるって、ぼくら、思ってたじゃないか」
「まあな」ダニーが言った。「下降線の下にいるってのは、どんなものか、上からさし示されてるんじゃないのかね。それが、なんなのか、ぼくらがわかるようにさ。あんまり、うぬぼれ過ぎるな、下での生き方を学べってさ」
「ほお」とぼくは言った。「ぼくは知ってるぜ。それについちゃ、よおく知ってる。信じろ、ほんとにわかってるんだ。それに、それ以上知るのは、そりゃ、無理ってもんだよ」
ダニーは笑った。ぼくたちはまた飲み、その夜は、そのことについてはもう口にしなかった。だが次の日、目が醒めると、太陽がはげしく目を射り、ぼくたちはもう汗をかいていた。前の晩からそのままの瓶に残ったウィスキーと、吸い殻があふれた汚い灰皿が、ぼくらの目の前にあった。まるで、失敗した手品みたいに。
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