top of page
チャプターTOP

不思議な子ども(神童) 上

1

🄫Yuki Hashimoto

 なんとも無念にも、その夜はぐっすり眠りこんでしまった。いらいらと輾転反側したり、起きだしてキッチンに行ったり、トイレに長居しても何もでなかったりの、つらい夜を僕は期待していた。だが、否だった。幅広のベッドに身を投げだした途端に眠りに引きずり込まれた。朝までぐっすり眠った。電気屋がいつも仕事に出かけるときに立てる物音で、朝の7時15分前だとわかった。ベランダに立って外を眺めた。無関心に。そう、無関心が僕の病気だ。8時、タクシーが来た。冬に入ったので、そう簡単にタクシーはつかまえられないだろう、と予約しておいたのだ。そのとき、いつもの頭痛がしないのに気づいて、まだなんとかなるかな、と思った。
 8時ちょうどにタクシーが警笛を鳴らし、持参するように指示された基本的な品々を(それが必要になる希望を込めて)詰めた、赤字でAVISと記された白い鞄を手に取ると、僕はエレベーター扉から玄関ホール、それから通りに向かうボタンを押した。
 タクシーの後部座席に腰をおろした。タクシーの客としては、助手席より後部座席の方がふさわしいし、それに僕は、雨がどうのこうの、暮らしが大変だの、という世俗的な話をする気分ではなかった。右のポケットを探って、ガサガサと音をさせる紙の束がちゃんと入っているか確かめ、左のポケットに証明書類や金を確認した。
 途中で、道は右に中央に左にとフォークみたいに何度も分岐し、ときおり運転手に、どう行きますか、右ですか、左ですか、と訊かれ、僕は必要に応じて返事した。
 予想だと半時間ほどで着くはずだったが、初冬の雨のせいで道も運転手も混乱し、予定はどんどん延びていった。運転手に煙草をすすめられたが、吸わない、と断った。僕は吸うなんてもんじゃない、愛煙家だ。運転手は、人を寄せつけない後部座席に座った僕の態度にも、素っ気ない断り方にもめげず、しばらくすると、冬には夏の到来を待ち、夏には冬の来るのを待つものだ、というような世の習いをぽつんともらした。僕は口ごもるように返事をし、それから、もっともいいのは春だといい、春についてもうひと言加えようとしたが、運転手がここぞとばかりに相づちを打ち、ここの春は短すぎる、わたしの生まれ故郷の春よりうんと短いと愚痴をこぼしだしたので、僕はまた胸のうちに何やらつかえるものを覚えて、話を合わせるのをやめてしまった。
 2時間後、最後の分岐点に着くと、右か、直進か、左か、と聞かれたので、右だというと運転手は右に折れ、予想したとおりに僕は頭痛をおぼえ、明け方に頭痛がなかったからといって取りやめないでよかった、と安堵した。
 タクシー代を払うと、運転手は好奇心を押さえ切れなくなったのか、ここはどんなところかと聞いてきた。心配そうな顔で。だが、どんな場所かわかっているような、当て推量できているような笑いをちらっと浮かべて。
 もちろん、僕は返事をせず、お釣りも待たずに車を降りた。運転手は行ってしまった。

PAGE

不思議な子ども(神童) 上

不思議な子ども(神童) 上

オルリ・カステル=ブルーム

著者:

母袋夏生

翻訳:

bottom of page